かつて半年ほど、真砂町の絵画教室で寝起きしていたことがあります。アトリエにはお風呂がなかったため、夜は炭団坂(たどんざか)を下りて、菊坂の菊水湯に通いました。炭団坂は北斜面なので、日が傾くとどこよりも早く夕闇が集まり始め、みるみる夜になってゆきます。炭団坂を下りて菊坂に向かうとき、なにか結界をおかすような感覚があるのは、真砂町と菊坂とでは時間軸が少しずれるからでしょう。菊坂には夜が早くやってくるのです。
菊坂は昼も夜も静かで、真砂町ではつねに聞こえている春日通りの喧噪も、ここには届きません。菊坂の路地を歩けば、猫が集会をしていたり、並べられた植木鉢の花がふいに香ったり、ほっとするようなほの暗さと安らぎがあります。でも、ふと考え事にふけりすぎている自分に気がつくことがあります。何の力なのか、内側へ内側へと思考のベクトルを向かわせる磁場が菊坂にはあるようです。そして夜は、その力が強くなるのです。
菊坂時代の樋口一葉は、生活とたたかいながらも古典の研究に打ち込んだといいます。のちに傑作を次々と生んだ彼女の文学的土壌は、この菊坂の磁場と共鳴して作られたのでしょう。
さてお風呂を終えた私は、また炭団坂を登って真砂町にかえります。坂を上りきると、時間軸がカチリと戻り、夜の闇が浅くなります。“現世”に戻ったようで、凡人の私は少しほっとするのでした。 |